2017年5月2日火曜日

演技に間を作る。

そよ風ペダル 5月2日 担当:梶川

今日の稽古のテーマは「間」だったのではないかと思います。
演劇でというか、脚本で書かれる間というとのは台詞と台詞の沈黙ことではないでしょうか。
脚本家さんによっては「沈黙」と書かれる方もいたりします。
演技で言う「間」となるともう少し意味が広くなる気がします。
例えば「間」を英語にするとスペース、インターバル、ポーズあたりがくるのですが、なんとなく「エンプティ・空っぽ」というのが近い気がします。
これは本当に個人的な感覚の話なので参考になりませんが。
毎回稽古中にポイントをメモ書きしていますが、今日のメモが以下の通りでした。

・しゃべっていない時、脚本を見ている時も表情、演技を持続する。

・ユーモアを発見するのはお客さん、お客さんより面白がらない。

・体とセリフを分離する。動くという段取りを明確にとらない。セリフの奥に隠す。

この3点が言ってしまえば「間」「エンプティ・空っぽ」についてだなと。
台詞の無い時、その役者にとっては沈黙しているわけで「間」になっています。
その「間」のあいだをどうするか。

お客さんがユーモアを発見するために、演技に「空っぽ」の部分を用意しておく。
その「空っぽ」の部分にまで面白さを潜ませてしまうと押しつけがましくなって見ている側は距離をとっていく。

三点目のメモは少し説明がないと分かりにくいですが、脚本では台詞とト書きが別々に書かれています。
台詞の前後にカッコ書きで動きの指定があることもありますが、それでも前後になります。
なので台詞を言ってから動くといったように、決まり事のごとく言葉と動きを扱ってしまう事があります。
動きを台詞と同じように扱ってしますと、動きまで台詞のように順番に行ってしまうのではないかということです。
動きに関しては台詞と一度切り離す必要があると感じます。
切り離してどこに置くかと台詞の奥がどこかというと、それが前述の「空っぽ」の部分ではないかと。

ここまで話してみて、どうも私の言っている「間・エンプティ」とは体のことを言っている気がします。
台詞は言葉なので少なからず頭の思考が入ってきます。
体は考える前に反応すると思いのです。
その反応を鋭敏にするために「空っぽ」を用意しておこうと。
「空っぽ」とは思考を通さない反応ということでしょうか。
反応を衝動と言い換えてもいいかもしれません。
このことを考えていくと「演技する時は演技してはならない」という矛盾した言葉になっていくのでしょう。
さらりと何気なく筒井さんから提示されていることですが、とても高度な要求がなされているのかもしれません。
どうであれ舞台上で自然体である事が一番だと思います。