2016年9月8日木曜日

会話はキャッチボールか綱引きか。

9月6日 そよ風ペダル 担当:梶川

引き続き、稽古されてないシーンの段取り創作をしていきます。


段取りとともに筒井さんからテンポよくセリフをやり取りしましょうという言葉が。

一幕が書きあがったころにセリフの扱いとして、感情などを抑制したプレーンな演技について稽古をしました。
二幕に入ってからそう言えば段取りの稽古ばかりでプレーンな演技については横に置かれていたのかもしれません。
それゆえにテンポが悪くなっているのか、そもそもテンポを悪くしている原因はなんでしょうか。

今回の作品は俗に言う愛憎劇という面がありまして、後半になるにつれ感情というか情念というか役柄の内側のエネルギーがマグマのように燃えていきます。
私から見ると二幕なんかは日常を舞台にしているようですが、役柄たちは少しずつ狂い始めていて常識から少しずれ始めています。
なんなら日常の幕をかぶっていますが、ファンタジーというか空想(妄想)世界のようです。

なにが言いたいかというと、その役柄の内圧の高ぶりに引きづられてテンポが悪くなっている可能性もあると。
単純に技術として追いついていない可能性ももちろんありますが。
感情に引きづられるもしくは言い方を変えると感情を表現しようとするとテンポは悪くなりますし、同時に演技の説得力も減ります。
なぜなら感情を表現しようとした時には、呼吸をたくさん吸うとともに体が強張りがちになるです。

非言語コミュニケーションと言われますが、人間は言葉以外の表情や声音や振る舞いから無意識的に相手を印象付けてコミュニケーションしているということです。
同じくどんな呼吸をしているかということが、無意識的にお客さんや相手役者にある印象を与えます。
この呼吸を作為的にしてしまった瞬間に演技はうそ臭くなり、その役柄は舞台上で生きられなくなります。

息を吸うということにおいて、問題は技術的なことと感情の取り扱いということで2種類あります。
技術としては例えば、次に自分のセリフをいう時に、相手のセリフ終わりで息を吸ってから始めると、セリフの頭に妙な間ができてテンポが悪くなります。

思うのですが、これは「会話のキャッチボール」という言葉の呪縛ではないかと感じています。
ボールが一個しかないので、どっちかだけしか持てないわけです。
イメージとして持ってない方(聞いている方)は手持ち無沙汰になります。
なのでボールが来た時に改めて受けて投球フォームに入るという準備が余計にかかってしまいます。

正確かはわかりませんが、演技においては綱引きではないかと考えています。
「会話の綱引き」。
どちらもが引いていて、その時少しだけ力が上回って引いている方がセリフを言いますが、 引かれている側も引っ張り返そうと常に会話に参加しているので、相手の力が緩めば即座に引くことができ、そこに余計な準備はありません。
舞台において相手のセリフを喋っている時はボールのないお休みでなく、その時こそより多くの力を発揮して引き返そうと必死になっている時なのです。

そして綱が逆に引っ張られるのは相手のセリフ終わりではありません。
相手の力が衰えるか、自分の力が発揮される時です。
自分の力が発揮されるのはしゃべりたいという欲望が高ぶる時で、そのきっかけは自分が作り出すのではなく、相手が強く引っ張るからうまれるのです。

2種類目の感情の問題につながりました。
ここでも同じ説明になりますが、キャッチボールでボールを持たずに感情を扱おうとすると、ボールが来た時からの準備になります。
ではなくて、常々引き合っておいて、その力加減で感情を動かしましょうよと。
そうすれば余計な準備がなくなってテンポも維持されます。

しかし、ここで一つ新たな視点として、綱引きというのを想像して、見た目地味なんです。
つまり引き合いだけではお客さんは飽きます。
では何をするかというと押します。
「会話のおしくらまんじゅう」
引いていていきなり押したり、かと思ったら引くのに戻ったり。
もしかしたら二人でバランスを崩すかもしれませんが、それもまた面白いことです。
押し引きと考えていくとつまり、駆け引きということですね。
恋の駆け引きと言いますが、つまりは演技というのは恋に似ているのかもと「演技のかけひき」とまとめるのはうまくいきすぎでようか。

どうであれ駆け引きというのは相手の出方や状況に応じることで、相手をしっかり見定めないことには成立しません。
ボールも綱も入らなくて、手をつないで押し引きの力を加えれば演技はできるということかもしれません。

来週は筒井さんがお休みで私が代講です。
とにかくテンポよく演技ができることを目指して、通しをおこないます。