2014年8月9日土曜日

あえて葛藤のまま。

8月5日 そよ風ペダル

今日は物語(エピソード)創作ワークとでもいうようなことをしました。
まずは昔話を共有するところから。
ある村にお塩さんという人がいるわけですが
その人は本当はさとさんという名前です。
けれど嫁いだ先でお姑さんから
家が貧乏でそんな甘い名前ではやっていけないから
今日からお塩さんと呼びますと言われてしまい。
それで名前をお塩さんに変えました、というお話。

このお話を参考に、前回までの「私は〇〇したい」などを使ってエピソードを広げます。
元の題材「私は〇〇したい」を決めます。
このあとに本当は・・・・・・・ということで〇〇したくない。
けれど・・・・・・・・・・・ということで〇〇したいと言いましたと繋いでいく。
この「・・・・・・・・というこで」という部分で話を広げることにより
新たなエピソードを掘り起こしていきます。
さらに言うなら元の題材は嘘でも本当でも良いということで考えています。
もし元の題材が本当であれば、そのあとの本当は・・・・・というのが嘘の話になり、元が嘘なら逆に本心がくるか更なる嘘が展開されます。
どこかしらに嘘が入り込みます。
それはつまり物語を創作するということ繋がります。

相反する感情や事実が両立することもありうるわけで。
これを全て本当のことで作り上げることもできるのですが。
物語ということで重要なことは、相反する立場が語られるということです。
つまりはここに葛藤が生まれます。
物語を作るストレートな方法は葛藤を描くことです。
ある目的をもった役柄がそれを阻害する困難に見舞われる。
役柄は困難を解決するために立ち向かい葛藤を経て解決し
そこからまた新たに生まれた困難に立ち向かっていく。
これを繰り返していって役柄は成長し、最も重要な目的を達成する。

実はそよ風ペダルでの物語はこういったストレートなものではないようにも感じます。
葛藤はあるとして、それに立ち向かうであるとか
目的を達成するであるとかを描くことではないと。
葛藤があることを困難ととらえないということでしょうか。
お塩さんと呼ばれて、本当のさとさんという名前を取り戻すために
お姑さんと喧嘩をしてしまったらそよ風ペダルの物語ではないのではないか。
それはそれとしてお塩さんと呼ばれ続けてきたこと、ただそれだけ。
葛藤が変わることなくただそこにあり続ける。
モロモロウロウロしかり、俳優修業しかり、
作品のテーマというか答えというか何かしらが提示され幕が引かれます。
しかし実は葛藤は残っていて、解決はしていなくて
その答えは見ている側に投げかけられているように感じるのです。
お塩さんと呼ばれているということに、みなさんは何を感じるのでしょうか。