2013年9月15日日曜日

ダンスとテレパシーと

9月10日 恍惚一座

高槻シニア劇団のもうひとつのクラス「そよ風ペダル」の
前回公演「モロモロウロウロ」では
物語の中でダンスを皆でしようということになりました。
稽古場では毎週30分で千手観音やらウェーブやらいろんな振りを練習しました。
恍惚一座も負けじと(別に競っているわけではありませんが)
作品の中に歌とダンスを盛り込みます。
振付けができあがり今日のところはみなさんに紹介を。
お家で自主練習するために携帯で撮影会です。
見よう見まねで踊っている人もいましたが、すでにほぼマスターしているような。
今回のダンスのポイントは動くことよりも止まることを意識すること。
手の先まで意識してみんなで動きをシンクロさせる。
フリ自体は簡単なので、ビシッと揃えてかっこ良く決めたいところです。

今日の稽古はクライマックスからエピローグまでをシーン稽古して残り時間を最初からいけるところまで。
山口さんの演出の特色のひとつはそのシーンの状況を
別の似た状況を例として提出し置き換え
身近に感じられるものとして演技に説得力を持たせることです。
愛している恋人を傷つけようとする人にやめてくれ頼むシーンを
自分の子どもが知らない人に連れて行かれそうになっていることに置き換えます。
愛しているということが抽象的なのですが、具体的に我が子として想定してみる。

物語や役柄は他人が作り出したものなので、
どうしたって解釈する上で足りない部分があります。
それは他人の思いや気持ちを想像することはできても、
完全に把握することはできないことと似ています。

話しは逸れますがSF作品でテレパシーを表現する時に、
対象の考えが声として届くように描かれます。
本当にテレパシーがあるとして(日本語で精神感応と言いますが)
言葉に置き換えられている時点で沢山のものが足りないと思います。
役柄や感情を演じるとした時、テレパシーのように把握しようとするなら
きっと言葉以外のものを取り入れないと成立しないのだろうなと。
結局テレパシーは使えないので、単なるたとえ話ですけど。

悲しんでいる人を目の前にして、同情であれなんであれなぜだか自分も悲しくなる。
その悲しみはそれぞれ別のものかもしれませんが
別の悲しみだったとしてもその二人はきっと寄り添い合うことができるのでしょう。
演技において他人の創作と自分の創作が別のものだとしても
寄り添い合うことができたなら、そちらの方が実用的ではないでしょうか。