2013年9月28日土曜日

不自由の中でこそ生まれるもの。

9月24日 そよ風ペダル

今日の脚本からのお話のテーマは「あなたの夢はなんですか?」。
いろんな話が聞けましたが、なぜか前回の東京オリンピックの話に。
学校の体育館で一台のテレビでみんなで競技を見た思い出が語られました。
そんなこと今は考えられないなと。


さておき、公演稽古です。
プロンプターが一役に対して一人、演じる人は一役に対して二人。
これまでの稽古でやったことをミックスです。
二人の役者はシンクロして、ユニゾンして一つの役を演じる。
完全に実験です。
提案している筒井さんもうまくいかないのではないかという疑いがぬぐいきれません。
最初はしっちゃかめっちゃかで、それが面白い。
しかしだんだんと慣れてくると、別の面白みが立ち現れます。
決してすべてがうまくいっているわけではないのですが、
笑いの面白さから、興味深い面白さに。
役者さんがいろんなものに操られ制限をかけられます。
プロンプや同じ役の相手を意識に入れながら相手役とやりとりをする。
とても不自由な中で、しかしだからこそみなさん特有ののびのびとしたものが強調され。
いい感じで力が抜けて立ち姿が美しいなと。
何が正解かわかりませんが(そもそも正解なんてありませんが)
この方法でシーンを作れる可能性は開かれているような。
最終的な答えより、過程での方法にこそ意味があるように感じます。
この方法が極まったものを見てみたくなりました。

役柄に集中する。

9月24日 恍惚一座

シーン稽古をこれまで積み重ねてきて、久しぶりの通し稽古です。
本番も近づきてきて、作品を仕上げにかかり始めます。
まずはダンス稽古から。
フリは結局は音楽のリズムに合わせるのですが、
全体の動きでも揃えていきたいのでそのための呼吸を合わせるワークを少し。
空間の空いているところをみんなで埋めていくという意識で歩き回る。
何の合図もなしに、みんなで同時に止まり、また合図なしで動き始める。
動きは歩く、ゆっくり歩く、速足で歩くを瞬間的にみんなで合わせる。
外から見ていて動き出しが一緒になるようにする。
まわりを探りすぎても合わないし、無視しすぎても合わない。
ダンスのフリを合わせるためのワークでしたが、
舞台上の役者のあり方として大切なような。
探りすぎず無視しすぎない、バランスの良い集中。
これがいわゆるリラックスした状態だと。

脚本をはずして、プロンプを入れながらの通し稽古。
どうしたってセリフが言えるか不安で頭でセリフを追いながら演技をしてしまいます。
セリフを間違ったり、出てこないといわゆる素に戻るということが起こります。
セリフに集中して演技をしてしまいます。
つまりは役柄がおざなりになっている。
これだと舞台上にはセリフだけがある状態で人物は生きていません。
それであれば、脚本を読めばいいわけで。
おそらくはセリフのないときに何をするかです。
しゃべっていないときにも役柄は生きています。
そのとき役柄は何を思い、何を考え、どんな目的を持って行動しているのか。
セリフに集中することから、役柄への集中へシフトしていく段階に入っています。

2013年9月21日土曜日

自分の中を見つめる。

9月17日 そよ風ペダル

今日の演技ワークは二人のシーンを片方は一人の役者が演じ、
もう一人の役柄は複数の役者で演じるということを試しました。
複数の役者で句点でセリフを言う人が変わっていく。
前の人に刺激され、負けないように積み重ねて演技を派手にしていく。
負けじと頑張るので明らかに声や動きがどんどん大きくなってきます。

後半で一人が演じる役は退場して、長い独白になります。
この部分も複数で演じます。
これにより、独白のセリフのはずがその人数の役柄が会話をしているように見えて興味深いです。
まるで何人もの自分が会議をしているような、
頭の中での考え事ってこんな感じな気がします。

一人であるアイデアを思いつき、
そのアイデアに対して自分で疑いを持ち、
自分のことなのにわからなくなり、
それでもなお支えようと自分を励ましていく。

日常では聞く相手がいなければこんなに長く独り言を言わないのですが。
独白というのは一人で語っていくものではないのだなと。
自分の中にある多面の性格が互いに意見を交わしている。
一人の同じ人と考えるよりは、セリフの中で区切りやきっかけ(そのわかりやすい一つの方法が句点)をさがして性格を変えていく。

ワーニャ伯父さんは長いセリフが多いです。
もしかすると独白に限らず、相手がいても長いセリフの中で
キャラクターの性格を変えていく、もしくは最早別のキャラクターなのだと考えると
字面以上に短く表現の幅の広い演技になるでしょう。
最後の締めに1対全員。
一人の中にこんなにたくさんのキャラクターがいるのです。

ルールを飛び越えるために。

9月17日 恍惚一座

今日はダンス稽古から。
先週に動画を撮影されていたので、自主的に練習されていたようです。
振付はすでにみなさんほぼ覚えられています。
細かい所はさておいて、どっしり落ち着いて、前を見て背筋をまっすぐ伸ばせたら出来上がりです。
あとは繰り返して慣れることですね。

山口クラスには作品創作においていくつかのルールがあります。
カタチだけの演技ではなく、嘘をつかずにやりきる。
相手にこういう演技をしてと言わない。
できない、難しいという発言をしない。
明言されていませんが、もうひとつルールがあることに気づきました。

演技はまず、実際に役者がやってみる。

ハードルの高いルールだなと感じます。
言ったところで初舞台なわけで、演技とは何なのかの発想や方法をそんなに持っているわけではありません。
それでもなお、自分なりのやり方で自分の体で表現できることを試していく。

山口さんからこれだけはと要望される方法は、
誰にセリフをしゃべっているかをはっきりさせること。
そして、相手の話を聞いてしゃべりたいという理由の上で話す。

このことをよりどころにするだけで、実はいろんなことができます。
言い方を変えるなら、これさえできていれば何をやってもいいのです。
このことに気づいている人とそうでない人では演技の質が違います。
このことに気づくだけでのびのびと自由になっていきます。
しかし言葉で説明しても実感できるものではなく。
自分の中できっかけを掴んで気づいていくしかありません。
何にせよ、求められる自主性の高さとそれに答えるみなさんの姿勢は素晴らしいのです。

2013年9月15日日曜日

脚本解釈とプロンプと

9月10日 そよ風ペダル

ワーニャ伯父さんの2幕の始まりを復習してテーマを出しての話し合い。
以前の話し合いでは自分に置き換えての体験談や、
そのテーマに対する考えを発表するという感じでした。
しかし最近の話し合いは、自分の実感の持っていることからの発表ということは変わりませんが
脚本の中でなにが描かれているのか、役柄が何を感じているのかといったことがよく話題に上ります。
言ってしまうなら脚本解釈をしているようです。
役者さんの発想で作品とつきあっている。
その解釈が正しいかどうか、作家の思想とあっているかは問題ではありません。
自分で考え想像することが大事です。
考え決断していかないと、演じる拠り所はないわけですから。

今日は初見のつづきのシーンをプロンプターで遊びました。
プロンプターとは脚本を持っていて、役者が台詞につまったときに次の台詞を言う人のことです。
役者は台詞を覚えていませんが脚本を持たず舞台に出て行く。
しかしその役者のすぐ横にはプロンプターが影のように付き添っていて。
台詞を全て言ってくれるのでそれを聞いて役者は演技を続けていく。
いろいろ起こってかなり面白かったのですが。
その面白さに自分で笑ってしまってプロンプができなくなったり。
こちらもまた次回公演のひとつの仕掛けとして使うので
詳しく何が起きたかは解説できませんが。
プロンプにも上手い下手があるという発見は興味深かったです。
かなり面白い仕掛けになりそうです。

ダンスとテレパシーと

9月10日 恍惚一座

高槻シニア劇団のもうひとつのクラス「そよ風ペダル」の
前回公演「モロモロウロウロ」では
物語の中でダンスを皆でしようということになりました。
稽古場では毎週30分で千手観音やらウェーブやらいろんな振りを練習しました。
恍惚一座も負けじと(別に競っているわけではありませんが)
作品の中に歌とダンスを盛り込みます。
振付けができあがり今日のところはみなさんに紹介を。
お家で自主練習するために携帯で撮影会です。
見よう見まねで踊っている人もいましたが、すでにほぼマスターしているような。
今回のダンスのポイントは動くことよりも止まることを意識すること。
手の先まで意識してみんなで動きをシンクロさせる。
フリ自体は簡単なので、ビシッと揃えてかっこ良く決めたいところです。

今日の稽古はクライマックスからエピローグまでをシーン稽古して残り時間を最初からいけるところまで。
山口さんの演出の特色のひとつはそのシーンの状況を
別の似た状況を例として提出し置き換え
身近に感じられるものとして演技に説得力を持たせることです。
愛している恋人を傷つけようとする人にやめてくれ頼むシーンを
自分の子どもが知らない人に連れて行かれそうになっていることに置き換えます。
愛しているということが抽象的なのですが、具体的に我が子として想定してみる。

物語や役柄は他人が作り出したものなので、
どうしたって解釈する上で足りない部分があります。
それは他人の思いや気持ちを想像することはできても、
完全に把握することはできないことと似ています。

話しは逸れますがSF作品でテレパシーを表現する時に、
対象の考えが声として届くように描かれます。
本当にテレパシーがあるとして(日本語で精神感応と言いますが)
言葉に置き換えられている時点で沢山のものが足りないと思います。
役柄や感情を演じるとした時、テレパシーのように把握しようとするなら
きっと言葉以外のものを取り入れないと成立しないのだろうなと。
結局テレパシーは使えないので、単なるたとえ話ですけど。

悲しんでいる人を目の前にして、同情であれなんであれなぜだか自分も悲しくなる。
その悲しみはそれぞれ別のものかもしれませんが
別の悲しみだったとしてもその二人はきっと寄り添い合うことができるのでしょう。
演技において他人の創作と自分の創作が別のものだとしても
寄り添い合うことができたなら、そちらの方が実用的ではないでしょうか。

2013年9月7日土曜日

引継がれる派手さ。

9月3日 そよ風ペダル

演劇の前に私たちには仕事や家庭があります。
つまりは生活があります。
演劇は生活に彩りをつけ豊かにすることができます。
少なくともできると信じています。
しかし演劇はその彩るべき生活があってこそであったり。
生活のために、長くお休みををされていた方が
そよ風ペダルに戻って来られました。
なんだか今日はいつもより、稽古前の待ち時間がにぎやかです。
改めてそよ風ペダル、これからフルメンバーで再始動です。

今日はとことんワーニャ伯父さん。
2幕の始まりの二人のシーンを全員がどちらのキャラも演じてみる。
ペアを変えてどんどん発表していきます。
課題は先週に提示された派手な演技をいかにするか。
自分たちの前に発表したペアの演技に影響されることもありますが、
内から生まれてくる自分のやりたい派手な演技をとことん追求して行きます。
発表の回数が重なるごとに、ペアは変わっていっているはずなのに
派手さがどんどん増していき舞台上の場の熱が
どんどん引継がれて上がっていきます。
言葉では上手く説明できませんが
確かに派手としか言えないものです。
そよ風ペダルの派手さが見えてきました。

優先事項と変貌

9月3日 恍惚一座

今日の稽古場はいつもより広い始めてのお部屋。
舞台の大きさも決まってきて、稽古場に舞台セットのしるしをテープで区切っていきます。
空間が広くなって、みなさんの声がいつもよりのびのびと大きく聞こえてきます。
本番の空間は更に広くなります。
何と言っても客席がしっかり組まれます。
そこにたくさんのお客様がいて。
舞台の中だけでエネルギーを充満させるだけでなく、
客席までそのエネルギーを届けていく。

脚本を持っていいということで稽古は続いていますが、お守り程度。
みなさんの自発的な努力で、脚本から体がどんどん自由になっています。
脚本に目を向けることなくやり取りを繋げていくことに集中でき始めました。
山口さんから演出プランが伝えられますが
それよりも何よりも優先されるのは、
相手にちゃんと話しかけ
それをちゃんと聞いていること。
ちゃんとって何だろうとなりますが、
そこをこれから追求していきます。
どんなに演出や工夫、仕掛けがあっても
やり取りができていなければ面白さが伝わりません。

演出が邪魔になるならやり取りを優先して。

やり取りを優先させることによって、録音をして声だけの役柄が、実際に舞台に立って演じることになりました。
稽古を重ねるごとに、どんどん作品が変貌していきま